過去、現在、未来。
4月3日 保護相談員との面接。
最近の体調について話をして、引き続き、調停のこと、仕事のことなど話をした。
今の私の状態は、「確かに回復の途中にあり、段階をひとつひとつ進んでいる」
ということだった。
「過去にあったことは過去のことに出来てきているよね。今現在に引きずってない。過去に引きずられてないね」
そう言われて、私はハッとしたのだった。
ここ最近、私自身が確かに実感していたことだったから。
私の中で、“殴られた過去”は、私の身に起きたひとつの過去の出来事として、実に客観的に捉えられるようになってきている。
フラッシュバックは、確実に減っていた。
これまでも、何度か客観的に捉えられていると感じていたのだけれど、その当時感じていたそれとは間違いなく違い、確かに“過去の出来事”になってきているのだ。
思い浮かべても、何かの拍子に思い出しても、過去に起きたこととして、そのまま
“そこに”置いておける。
例えるなら、私の生きてきた時間が、ひとつの道として、自分の横や後ろに見えているとしたら、“殴られた過去”という事実が、それが起きた時点の時間軸の上に置いてあるような感じ。
自分の年表の上に、無造作にポンと置かれているような感じ。
またひとつ、回復のステップに到達したのかもしれない。
とはいえ、まだまだ恐怖に飲み込まれそうになり、冷静さや判断力の低下を招くことがある。
その度、自分の精神の安定を図ろうとする自分がいる。
完全復活には、もう少し時間が必要なようだ。
「それだけ怖い思いをした、ということだよ」
相談員にそう言われて、“そうか・・・そうだよなあ”とぼんやりと思って、
「殴られて怖かったんです。本当に怖くて怖くて、でも、それを夫に言ったら、もっと怒られて、殴られて本当に怖かったんです。怖いって言ったら殴られるから、言わなく、言えなくなりました。殴られないための方法を考えるようになりました」
言いたくてもずっと言えなかった言葉を、素直に、ひと思いに吐き出せた、と思った。すっきりした。
涙が出そうだったけれど、なんとかこらえることができた。
今もずっと、私はどこかで気を張っている。
いろんな意味で気を張っている。
外出すれば、やはりまだ人ごみの中に夫を探す。
夫によく似た背格好の男性がいれば、息を呑み、足がすくむ。
もう少し時間がかかっても、近い将来、こんな風に気を張らずに、自然体で過ごせるようになったらいいな、と思う。
今はただそれだけ。
“気を張る”というのは本当に疲れることで、気を張らずに過ごそうと思うことで、また意識することに繋がり、精神と肉体が疲弊する。
気を張って、緩めて、気を張って、意識して、ずっと私はそれを繰り返している。
それでも、自分を失わず、自分を保てるのは、やはり夫がいないためだと思う。
“殴られることがない”
“地雷に怯えることがない”
“もう怖い思いをすることがない”
今は、いつでも「助けて」と声をあげることができる。
「助けて」と叫べば、いつでも助けてくれる人がいる。
その事実と確保された安全が、私に平穏をもたらしてくれる。
子どもたちと共に、穏やかに、静かな時間の中に身を置くことができる。
今、そのことが本当に心地よく、幸せなのだ。
近頃、自分のための時間や人との交流の場を持ちたいと思うようになっている。
そのことを話したところ、これまでの私の状態からまた一歩前進している、よくなっている、ということを保護相談員から言われたのだった。
「少し前までは、子どものためにとか、外で植物の世話をしようとか、自分の周りのことや環境や物質的なことだった。直接的に自分のことではなかったのが、自分へ気持ちが向いている。自分のために、っていう方向に向いて来てるよね。自分が幸せになることに気持ちが向き始めてる。変化だね。それも回復過程のひとつ。確実にいい方向に前進してる。もう少しだね」
自分の思いや考えを、率直に話すことは許されなかった。
喜怒哀楽を素直に表現することなど許されなかった。
能面のようになり、笑えなくなった。
笑って人と話ができるようになってきた最近の自分をなんだか不思議な感覚で捉える自分がいる。
もう少ししたら、いつか、笑っている自分に何も思わず、考えず、自然に笑える時が来るだろうか。
ぎこちなく、怯えながら笑うのではなく、誰も私を殴ったり、激怒したりすることはないのだからと、安心して心から笑える日が来るだろうか。
あと少し。
もう少し。
私には時間が必要だ。