DV被害を経験に変える。
先週のお題に乗り遅れることしばらく・・・
今回綴るのは、私が“ブログを始めたきっかけ”について、です。
私は、ある時、私自身がある社会的問題(課題)に直面することとなり、それをきっかけにブログを書き始めました。
私が直面したある社会的問題、それは、
DV(ドメスティック・バイオレンス)です。
このブログを始める当初、私は、まだ『自分がDVを受けていた』ということをしっかりと認識できずにいました。
そのことを認識できるようになるには、その後、随分と長い時間を必要としましたし、自分自身を取り戻し回復するのにも、相当な時間を費やし、多くの人との関わりが必要になりました。
長い時間を過ごす間に、様々な立場の方とお会いする機会に恵まれ、相談に乗っていただき、アドバイスや助言をいただくことができました。どれほど感謝してもしたりないほど、たくさん力をお貸しいただきました。
そうしていろいろな方と関わる中で、自分と同じように苦しんでいる人、大変な思いをしている人、我慢して耐えている人が、実は、たくさんいることを知りました。
また、そこには子どもたちの存在があり、子どもたちにもDVが様々な影響を与えることを知りました。
そんな時でした。
私は、ふと、思ったのです。
「私は、望んでもなかなかできるようなことではない経験をした。それは、とても辛く苦しいことだったけれども、それをこれから先の人生で活かすことはできないのだろうか」と。
『同じように苦しみ悩む人が実はたくさんいる』
そのことを知った時、人は大きく分けて、2種類に分かれるのだと思います。
(あるいは、行動が分かれる、と表現する方が適切かもしれません。)
“知ったことで行動を起こす人とそうではない人”
“何かしようと思う人とそうではない人”
この社会的課題は今までも長く存在しています。これから先もきっと私たちの生きる世界にあり続けて、けれども、どこかひっそりと巧みにその身を隠して、存在し続けるのでしょう。
問題の解決はというと・・・とても難しいものであるのだと思います。
私は「ひとりの経験者として、この問題あるいは課題に向き合っている人たちのように、自分にもできることはないだろうか。自分が経験したことを活かしてできる“何か”はないのだろうか」そう思うようになったのでした。
それが、ブログを始めた大きな理由の一つでした。
そして、もうひとつ理由があります。
“ブログを書く=外に発信する”ということが、『自分自身を知り、力をつけることにつながる』と考えたためでした。
書き始めた当初、あまり強くそれを実感することはなく、まだまだ私は多くの混乱の中にいましたから、記録していく作業が、どうしようもなく辛く苦しい時もありました。そんな時には、いろいろな人がくれた言葉が私を支える力になり、現実に立ち向かう勇気をくれたものでした。
私はDVを受けたことで、例えようのないどこまでもつきまとう恐怖と、様々な精神的・肉体的症状と長く付き合っていくことになりました。
今も、それらとの付き合いは続いていて、DV被害について熟知している方々によると、様々な症状などは、一生長くずっと付き合っていくことになるのだそうです。
専門的な言葉で端的にまとめてしまうと、心的外傷後ストレス障害(PTSD)やバタード・ウィメンズ・シンドロームなどと言うようです。
(※これらに関しては、次回以降に触れていきたいと思っています。)
私が少しずつ回復し始めたのは、治療やカウンセリングなどを受け、自分自身がこの問題、課題の勉強をするようになってからでした。今は心理学を勉強し、カウンセラーになるための勉強をしています。
いつか、同じように苦しむ人、苦しんだ人、その子どもたちや加害者のために、経験を役立てることができたら・・・と考えています。
“自分自身を知ることは力になる”と書きましたが、これは幾つかの段階を持ち合わせ、その段階を経ていくことで、自分自身を取り戻したり、回復したり、力になったりするもので、決して容易いことではありません。けれども、自分自身を知ることが、必ず、いつか、自分の力になることは確かです。
今、DV被害と戦っている方、向き合っている方、様々な立場の方がおられることと思いますが、どうか、諦めないでください。
苦しくても、混乱しても、必ず、費やした時間は自分の力になります。
結果となって、自分にありありとわかる形で現れてきます。
どうか、諦めないでください。
DV被害者が本当の意味で自由になれる時というのは、自分がそこから抜け出せないようなどうしようもない人間だとか、弱くて愚かな人間だとか、そのように感じることではなく、そこから抜け出せない様々な理由があったのだと、知り、真に理解ができた時だと思います。
抜け出すにも、逃げるにも、立ち上がるにも、長い時間がかかります。
だれもそれを責めることなどできない。
ずっと、ずっと、先の見えない長く暗いトンネルの中をあてもなく必死で歩き続けたのだから。
未だ苦しんでいるあなた。
あなたは決して弱くはない。悪くはない。
あなたはずっと戦っている。ずっとがんばっている。
あなたはひとりではないのです。
同じように苦しんで生き抜いた人が、他にもいることを知っていてほしい。
DVの中に存在するもの
私は、自分がまさか夫から暴力を振るわれるとは思ってもみませんでした。
けれども、私たち夫婦の間に起きたことは、紛れもない事実でした。
夫は、自分のしたことを認める、謝罪するなどということからはほど遠く、むしろ「自分の方が妻からのDVに遭った被害者である」という主張を調停で繰り広げました。夫は、「妻は子どもたちを虐待し育児放棄している」とも言っています。
実は、“DV加害者が自分は(自分こそが)被害者と主張する”ことは、よくあることなのだそうです。インターネット等で調べてみてもこの手の記事が出てきます。
私自身、身の回りの調停等に詳しい人や法曹関係者に相談した際、同様の話や意見を耳にし、幾つかのアドバイスを受けました。
市役所の女性相談員(保護担当者)にも、気を付けるように言われたことを昨日のことのように覚えています。
『うまい嘘なら人は騙されることがある』
そういうことが現実にあってはならない場面であっても十分に起こる、ということです。
調停等控えている被害者の方は、くれぐれも気をつけてください。
どんな理由があっても、暴力は絶対NGです。
DVに言い訳はない。
暴力はコミュニケーションの手段や方法ではありません。
そのことを、決して忘れないでください。
どんなに心が揺れても、思い出してください。この言葉を・・・
一緒に暮らしている当初、夫に対して、
「嘘がうまいなあ」
「よくそんなこと言えるなあ」
そのように感じたことは何度かありました。
改めてこのことを調停では身にしみて感じました。
嘘も方便という言葉がありますね。
私は、人が生きている中には“必要な嘘”というのも、時にはあるかなと思っています。
ただ、コレは、『そういったこととは全く別のものである』ということを、このブログを読んでくださった皆様にはせめてご理解頂ければ幸いです。
DV加害者は、特徴として非常に高い演技性を持っています。ある側面で見れば演技性と言えますが、見方を変えると、二面性があると表現できるかとも思います。
これはある種の才能のようなものでもある、と私は思います。暴力という形で表れなければ、違った方向に向き、よいエネルギーとして活用することも出来得ると思うからです。
さて、この演技性というものの根底にあるのは、“自分を良く見せたい気持ちの表れ”です。『自分は(絶対)正しい。正しいことをしている。間違っていない』等という思考を持つことに由来するものです。
『妻が◯◯だから仕方なく(暴力を振るった)』
『自分は◯◯だと思っていたが、△△な状況だったからそうなった(殴った) 』
『いきなり殴ったのではなく、ケンカの延長で口論の末殴った』など。
加害者からは、必ず理由付けが行われます。
これは、加害者が自分自身を守るための理由付けです。
加害者の言い分を聞いていると、「ああ、なるほどな」「そうか、それなら仕方なかったのかな・・・」などと、思わず共感してしまいそうな具合に話が展開していくことがあります。
展開していくというより、そこに引き込まれてしまうような、飲み込まれてしまうような感覚に似ています。やけに説得力のある表現を使ったり、揺るぎない強い自信に支えられた表現で様々なことを話すため、聞き手はその世界に飲まれてしまうのです。
DV加害者の一部は、消極的だったり、自分に自信がないことなどから、他者に自分を良く見せるためであったり、自分を否定され傷つかないための方法を、長く身体で学習しています。それらは、すでに身体に染み付いた熟練したテクニックとして存在していて“必要に応じて”それを引き出して体現することができます。これは、無意識的に行われるものと、意識的かつ確信犯的に行われるものがありますが、前者と後者は似て非なるものです。
暴力の中には、背景となるものが必ず存在します。怒りの背景にある考え方や価値観を変えない限り、暴力という手段を選択肢から消し去ることはできません。暴力の支配の関係性は、相手を尊重する気持ちの欠如から始まると思います。そこには依然として男性優位、女性蔑視の考え方があるのです。尊重する気持ちがあるかどうかで、結果、未来は大きく変わります。
逃げても逃げても、決して休まることのない気持ち。
安心することのない心。
どこに逃げたら安心か。
心からの安らぎを得て生活ができるのか。
心から笑うことができるのか。
私は、
「もしもDV加害者が変わることができたら・・・」
そう思っています。
『今も殴られている人がいる。』
『それを見ている子どもがいる。』
『暴力に耐える人がいる。』
『怯えて息をしている人がいる。』
それを知って・・・
そう思ったら・・・
私は自分も被害者なのに、私に何かできることはないのだろうかと考え始めていた。
いつか暴力を克服したいと思った。その時の思いが今に続いている。
いつか、きっと、成し遂げよう。
被害者支援と加害者更生。
皆が笑える社会になればいい。ただ、そう思い願う気持ちだけが今に続いている。
DV関連の本
今日、用事で外出した際、少し空き時間ができたので、ここのところ忙しくてなかなか行けなかった図書館に行ってきました。10冊借りてきました。
目的は、DV関連の書籍を借りるため。
さらに、調停と裁判に備えるため。
長い長い闘いの“終わり”と“始まり”です。
これは本当に大変なエネルギーを必要とすることで、
中には、調停中に、うつ病になる人もいるのだそうです。
もちろんそれは、取り扱う内容や案件、種類にもよるのだと思いますが、
離婚調停は、その種のものだと思います。
結婚するより離婚する方がエネルギーがいる、というのは真実ですね。
これまでにも時々、図書館でDV関連の書籍を借りましたが、今回、本棚を見ながら、「あれ?こんなに種類少なかったかな?」と思いました。
種類が少ないのではないのです。
それだけ、借りている人が多いということ。
棚の下の方に、返されてまとめて置かれていたようなDV関連の本たちがいましたが、
これまで目にしなかったタイトルのものもありました。
私がいつか借りたいと思っていたものもありました。
こういうとき、ぼんやりと
「ああ、同じように悩んだり苦しんでいる人がこの街のどこかにいるんだなあ」
と、私は思うのです。
私は今、DVの被害からは少しずつ回復してきています。
未だ心身に様々な症状や反応は出るものの、以前に比べればずっと楽になりました。
何よりも、『暴力に怯える日々がない』というのが、一番心と体を楽にしてくれることです。
ただ、これも正確には、“家の中での安心”に限られます。
やはり、未だに外出すれば、人ごみに夫の姿を探します。
夫の家族を探します。
私の夫は特殊な仕事をしているので、その手の人たちや場所を見ると、体がガチガチになります。
諸般の事情があり、今は明かすことができませんが、
いつか、このことにも詳しく触れることができるとよいと思います。
そういう日が来るといいな、と思います。
さて、今回借りてきて本たちのタイトルはというと。。。
👇 👇
◎新版 データで読む家族問題
◎まだ、僕の妻でいてくれますか?
◎カウンセラーが語るモラルハラスメント
◎一番幸せになるために別れる?やりなおす?
◎DVあなた自身を抱きしめて アメリカの被害者・加害者プログラム
◎Q&Aモラルハラスメント
◎DV・虐待にさらされた子どものトラウマを癒す お母さんと支援者のためのガイド
◎DVにさらされる子どもたち
◎DVと虐待 「家族の暴力」に援助者ができること
◎離婚してもいいですか?
以上です。
作者名は省いてます。
悩んでいる方は、おそらくいろいろな状況や環境の中にいらっしゃることと思います。
以前の私のように、自分がDVに遭っているということを自覚できないでいるかもしれません。
「そんなはずはない」「まさか」と思う方もいるかもしれません。
その方の状態によっては、これらの本を読むことが精神的、肉体的負担になることもあるかもしれませんので、そのことも少し胸に留めておいていただければ・・・
と思います。
これを読んでくださった方の中には、
自分の身近な人や、周囲の人の中に、「もしかして・・・」という人を目にすることがあるかもしれません。(目にしているのかもしれません)
そういう場合には、被害を受けている方への関わり方が重要です。
被害者はDV被害者だということを自覚していないケースが多いためです。
(かつての私のように・・・いつか、被害者心理にも触れていきたいと思います)
言葉掛けは選んで然り・・・だと思います。
なにはともあれ、
一人でも救われる人がいればいいなと思います。
心が楽になる方がいてくれたらなと思います。
その方々に子どもさんがいるならば、子どもたちが笑顔でいられるといいなと思います。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
笑顔のある未来を・・・
笑顔のある未来へ・・・
考える
PTSD
『ボコボコに殴られる』
衝撃でした。
それは、まるで、本当に雷に打たれたような、全身を激しく何かに打ち付けられるかのような、とても、とてつもない衝撃的な出来事でした。
自分がそれまで生きてきた中でも、あまりに衝撃的な出来事で、私は、その時の光景を忘れることができなくなりました。
それは、鮮明な色つきの記憶として、その後、私の中に、長く、長く、居座ることになりました。
何度も何度もふとした瞬間にその時のことが思い出され、考えようとしなくても、不意に突然それは頭の中に鮮明に蘇り、何度も何度も私を襲ってくるのでした。
どんなに時間がたっても、それはいつも不意に襲ってきて、いつも居座り、いつも私を追い込むのでした。
頭をブンブン振って打ち消してみても、それは決して消えることはなく、ずっと私の中に存在し続けるのでした。
優しい夫。
殴る夫。
キレる夫。
泣く夫。
嘘を言いふらす夫。
謝る夫。
私は、徐々に混乱し、精神を病んでいきました。
当時は、そのことに必死に抵抗しようとしたり、自分を見失わないように必死で精神の安定を図ろうとしていました。
いつからか、それができなくなっていきました。
そのうちひどい頭痛に悩まされるようになりました。
原因不明のめまいにも、悩まされました。
ひどい肩こりと腰痛、不眠の症状も出てきたのでした。
いつからか、殴られても痛みを感じなくなりました。
瞬間的に痛いのですが、すぐに痛みを忘れてしまいます。
とても不思議でした。
私は、『痛みに強くなったのかしら』とただ単純に、漠然と、そう思っていました。
━PTSD━
言葉は知っていました。
意味も知っていました。
医療系の仕事をしているので、学校で勉強をしたことでした。
今は、「ああ、私の夫はDV夫だったんだ」それがわかるのです。
そう、思えるのです。
あれから、あと数か月で3年が経とうとしています。
なぜ、あの日、私はシェルターを提案されたのか。
なぜ、情報をトップシークレットで扱う方が良いと言われたのか。
なぜ、あの日、私はDV更生プログラムがあることと現実の厳しさを教えられたのか。
今ならわかる気がします。
私は、10年後どうしているだろう。
“今”をしっかりと越えているだろうか。
私は、後悔するような生き方だけはしたくない。
あきらめることなく今を進んで辿るべき道を歩いているだろうか。